前回↓の続き。
http://truebeliever.blog103.fc2.com/blog-entry-527.htmlひとしきりフルボッコにされた後、おれは芋洗坂に職員室まで連れて行かれた。芋洗坂のお陰で職員室にたどり着けたことには感謝すべきだったのかもしれないが、もちろんおれはそんな気持ちになれるハズなどなかった。
おれは職員室の端の小部屋に連れていかれた。おそらく問題を起こした生徒の指導に使われる部屋なのだろう。
少し遅れて、おれの担任の体育教師が入ってきた。芋洗坂は興奮しながら、目の前にいる生徒が自分に対して如何に無礼で屈辱的な仕打ちをしたか、おれの担任に向かって説明を始めた。芋洗坂の言い分は一方的な誤解と偏見に満ちていたが、余りにも己れの理解の範疇を越えた出来事ですっかり頭のなかが真っ白になっていたおれは、弁明しようとか誤解を解こうとかいう発想が一切湧いてこなかった。完全に思考停止状態に陥ってしまっていた。
仮にここで担任が事情を察してくれて上手くフォローしてくれていたら、おれはまだ救わていたかもしれない。
だけど、脳味噌まで筋肉でできていそうな筋肉バカの体育教師は、残念ながらそこまで頭が働かない男のようだった。
担任はおれに一切の事情を訊ねることもなく、芋洗坂から聞いた話だけを根拠に、おれの行いを激しく責めた。もしかしたら担任は、最初が肝心だと思って敢えて必要以上に厳しくおれに当たったのかもしれない。いかにも思慮の浅い体育会系の筋肉バカが考えそうなことだ。
休み時間の終わりと授業の始まりを告げるチャイムが鳴ってもなお、1vs2の変則タッグマッチは一向に終わる様相を見せなかった。おれの耳には、すでに芋洗坂の声も筋肉バカの声も届かなくなっていた。
おれは決して素直な良い子なんかではなく、むしろ生意気でひねたガキだったから、先生に叱られたことなど昔から数え切れないほどあった。
だけど、少なくとも今までは何故自分が叱られているのか納得できていたし、悪いことをしたのは自分なのだから叱られて当然と諦めもついていた。逆に言えば、自分が間違ったことさえしなければ叱られることなど無いと信じ切っていた。なのに・・・。
「おれは何でこんなに怒られてんの?」
「おれはここまで殴られなきゃいけないようなことしたの?」
ただただ、おれは頭のなかで自問自答を繰り返すだけだった。両目からは相変わらず塩っ辛い水が際限なくあふれ出していた。
「謝れ。」
やがて筋肉バカは、おれに芋洗坂へ頭を下げるよう強要した。
「謝れって言うてるやろが!」
筋肉バカは言葉が出せないでいるおれの頭を殴りつけると、無理矢理おれの頭を押さえつけて頭を下げさせた。
「すみませんでした。」
って言おうとしたのが、嗚咽のせいでうまく言葉が出ずに
「ういわえんでいあ。」
なんて意味不明な発音になってしまい、何を言ってるか分からないおれに、芋洗坂が不服そうに捨て台詞めいた言葉を吐いておれを睨みつけると(両眼はあさっての方向を向いていたけれど)、部屋から出て行った。何故ここまで敵意に満ちた態度をとられなければならないのか、おれは最後まで理解できなかった。
そんなわけで、時間にして20分ぐらい経っただろうか、おれはようやく解放された。
担任に連れられて教室に戻る。すでに教室では社会科の授業が始まっていて、静まりかえった教室のドアを開けると、にわかに教室がざわつき、クラスメートの視線が一斉にこちらに集まった。
目を真っ赤に泣き腫らしてヒクヒク言ってるおれの一挙手一投足を全員が注目する。担任が社会科の教師に何やら耳打ちするように事情を説明している。クラスメートたちが、ふたりの教師が、盗み見るように時折こちらをチラチラ伺っている。
晒し者にされた気分だった。
周りの全員がおれを嘲笑しているように感じた。
「お前らこっち見んな!」
って叫びたかった。
後に様々な意味で波乱の中学校生活を送ることになる(正直あんまり思い出したくないことや、懺悔しなければならないことや、ちょっとブログでは書けないような洒落にならないこともいろいろやらかした。)おれだけど、今にして思えば、この出来事はそれを暗示していたのかもしれない。
そして、今のおれの人格が形成されるに至る過程で、この出来事は大きく影響を及ぼしたとも思っている。
教育現場には、無神経な側面が多々あるものだ。
そして、教育現場に限らず何らかの集団に属して社会を形成する以上、無神経に傷つけられるリスクは常に存在する。社会とは所詮そういうものなのだ。だから、自分の身は自分で守るしかない。それをイヤというほど分からせてくれた薄らバカ面の芋洗坂と筋肉バカには、感謝すべきなのかもしれない。
もうひとつ、この一件を通じて薄らバカ面のふたりに教わったことがある。
それは、人を叱ることの意味。
叱るという行為は、もちろん時と場合にもよるが、人を教育する際に必要な手段だ。
しかし、あくまで人を叱るという行為の目的は相手に反省と成長を促すことであり、己れの感情をブチまけることではない。それを忘れてはいけない。
どんなに正当な理由があって叱ろうとも、叱られた人間は多かれ少なかれ傷ついている。だからこそ、叱り方にはじゅうぶんに配慮すべきだと思う。
何が悪かったのか?
何故叱られているのか?
叱られる当人がその点に納得したうえでなければ、どんなに言葉を尽くしても叱責の言葉は相手の心に響かない。
心に響かない叱責は、単に相手に屈辱を与える行為でしかない。そして、叱られる側が屈辱だと感じてしまっては、そこから何かを掴もうとか反省して次に活かそうとかいう前向きな発想は生まれてこない。それでは叱る意味など無いのだ。
そのことを気づかせてくれた薄らバカ面の芋洗坂と筋肉バカのふたり、今どこで何してるのか知らんが、どうもありがとう。
テーマ:雑記 - ジャンル:日記
- 2008/08/27(水) 00:10:28|
- 過ぎ去りし想い出
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